旧約聖書の神様ってとても怖いんですけど。
ヨシュア記、ヨブ記、エゼキエル書を読んでいると震え上がってしまいます。
とても神は「愛」なのだとは思えません。
また、旧約聖書のところどころで神自身が、怒りの神、嫉む神、災いの神、裁きの神であることを宣言しています。
人格神にしては性格が悪すぎるように思えてなりません。
なぜこのような神様が新約聖書では、博愛の神、至善の神、全能の神に変化したのでしょうか。
質問:なぜこのような神様が新約聖書では、博愛の神、至善の神、全能の神に変化したのでしょうか。
回答:いいえ。神は永遠に変わりません。人間の心が救いの前後で変わるので感じ方が変わるだけです。
説明:
身近な例でお話します。私は猫が好きです。私の父と一人の友人は私の猫好きを知っていてかわいそうな捨て猫を見つけると私の所に連れて来ます。私は痩せてガリガリになった子猫を見ると心からかわいそうに思い、美味しいものを食べさせて上げよう、優しく抱いてあげよう、体を洗ってあげようと思います。しかし近づくと子猫は「ギヤア!!」とうなり声を上げ、私を威嚇します。「あぁ。この子もイジメられて心が傷ついているのだ。水と食べ物だけ置いて、そおっと見守ろう。」私が離れてしばらくすると辺りを注意深く伺いながら子猫は餌の所に来て、くんくんやり始めます。「しめしめ」食べました。こうして傷ついた子猫と私の生活が始まります。子猫が安全だと感じられるように細心の注意をします。出来れば子猫だけの部屋にして、誰も入らず、物陰の安全な場所に寝床とトイレを用意します。外に出ると帰ってこないので出入り口は塞ぎます。
餌を食べている時に私は姿を見せ少しずつ近づきます。逃避距離は日増しに短くなり、とうとう触らせてくれる日がやって来ます。それでも子猫の心の古傷に触れないように細心の注意を払い続けます。
何ヶ月が経ったでしょうか、変化の時が訪れます。子猫が私を信頼する時。子猫が私の愛を信じる時、子猫の中に私への愛が呼び起こされる決定的瞬間が訪れる。
突然その日が来るものです。その日、喉をさすると「グルル」と気持ちよさそうな声をあげます。頃合を見計らい抱きかかえた子猫を仰向けに寝かせます。すると子猫がお腹を上にしたまま優しいまなざしを私に向ける瞬間が訪れます。子猫が私に身を委ねた瞬間は「傷ついた子猫を愛し続けて来て良かった」と心底感じる至福の瞬間です。
その後も時折寝ている最中にうなされる時がありますが、傍に居て体をさすってあげると子猫は安心して寝てしまいます。
私は最初から最後まで子猫を愛していました。しかし、最初、子猫の目に私は恐ろしい敵にしか見えません。その後、慈しみと哀れみを絶えず注ぎ続けると、子猫の心に変化の時が訪れる。子猫は私の愛を知り、私を信じ、私を受け入れ、私を愛し始める。子猫の心に私への愛が呼び起こされた瞬間、子猫は私に救われるのです。
時が過ぎ、子猫も死を迎える時が来ます。愛するものの死は悲しいものです。しかし、もし子猫が私に拾われなかったならどうだったかと思うと愛し愛された至福の記憶がよみがえり「これで良かった」と思います。
私は猫より長生きです。幾千万の時が過ぎ、幾千万の傷ついた子猫を愛し、子猫の心が救いの前後で変わるのを見守り、子猫から愛され、死別の悲しみを味わった。私は昨日も今日も永久に変わらない。なぜなら私は愛だからです。
私は夢を持っています。いつの日か、愛し愛された子猫だけの国で再会できることを。私の名前は・・・・(つづく)
■子猫はかわいいですね。反抗的な子猫ほどかわいい。
psa1397さんの述べるとおりです。
神は全能者ですから、人のように欠けたところはありません。
厳しい裁きも潔白な者たちのためでもあります。
強盗や殺人鬼が裁かれずに私たちの周囲で自由にしていたら、
つつましく生活している人たちの生活はだいなしではないでしょうか。
ですから、神に裁く力や意志がなければ、
無責任、無能、だらしないというレッテルが付くことになるでしょう。
エジプト記34章6,7にはこうもあります。
「そしてエホバは彼の顔の前を過ぎ行きつつ、こう宣明された。
「エホバ、エホバ、憐れみと慈しみに富み、
怒ることに遅く、愛ある親切と真実とに満ちる神、
愛ある親切を幾千代までも保ち、
とがと違犯と罪とを赦す者。
しかし、処罰を免れさせることは決してせず、
父のとがに対する処罰を子や孫にもたらして、三代、四代に及ぼす」。
ここにも裁きが述べられてはいますが、それだけではないでしょう。
ですから、意味なく恐怖するのではなく、あなたが恵みの側に入ればいいことです。
さらに、詩篇130:3,4。
「ヤハよ、あなたの見つめるものがとがであるなら、
エホバよ、いったいだれが立ち得るでしょうか。
あなたのもとには真の許しがあるからです。
それは、あなたが恐れられるためです」。
「見つめるものがとがであるなら、…いったいだれが立ち得るでしょうか」とは、
『いいえとがに注意を向けてはおられません』という言葉を要求している付加疑問。
人間が物事をかんぺきにこなすようにはなっていないことを
神ご自身がよく知っておられます。
神は重箱の隅をつっつくようなあら捜しをすることはありません。
むやみと恐怖する必要はないのです。
「あなたが恐れられるため」とは神に恐怖することを求めるものではありません。
よく挨拶の中で『恐れ入ります』と言われます。
それはあなたに恐怖している、という意味ではなく、
あなたに大いに敬意を抱いている、という意味です。
イザヤ43:13。
「また、わたしはいつでも同じ者である」。
エホバの性格が変化することはありません。
ここに三つ、新約聖書の中から引用して示しました。
神の愛がそのように表現されているのです。
神に対する概念が違うと思います。
ご承知の通り、「神は愛」(第一ヨハネ4:8,16)=ホ セオス アガペー エスティン
のアガペー(自己犠牲的な愛、神のみが実現できる愛=アンダース・ニーグレン「アガペーとエロース」)というギリシャ語ですが、ヘブライ語に相当するものはありません。
旧約の神様は片方で「殺してはならない」(出エジプト20:13、申5:17)といいつつ、他国の人々に対しては「私は(主は)彼とその全軍、その国をあなたの手に渡した~町全体、男も女も子供も滅ぼしつくした」(申3章)と、殺せ、殺せです。
旧約と新約の神様を同じ土俵で語るのは無理があると思います。また、福音書では「神は愛」という表現がないので、神のとらえ方は人間の側で変化していると思われます。
現在でも大国がみなそれぞれの神様の命令で敵を殺しあってます。キリストの時代も当然そうで、弟子たちは大群を率いてイエス様がローマをやっつけてくれると思っていたのでしょうが、結果はご存知の通りです。その後の聖書筆記者たちが、いろいろの解釈をして、「神は愛」という一つのテーゼができたのではないでしょうか。もちろん、新約の中には「神は愛」というだけでなく幅広い考えがあるのを読み込んでも決して間違いではないはずです。
結局、神様は人間では理解できないかたなのでしょう。私は少なくとも、神様はこういう方だと定義する必要はないと思いますが。
以上、答えになってないですね、自分の感想です。すみません。
神とはそういうものかも知れません。だから恐れおののき、正しく生きようとするのでしょう。
ノアの箱船の話も、私は、気に入らない(自分で作ったけれどできの悪い)人間は滅ぼしてしまう……そんな風に感じました。ストーリーは面白いから何度か読んでいますが……
黛敏郎さんの音楽が浮かんで来ます。
聖書の神は永遠から永遠までいらっしゃる方です。少しも変わるところはありません。
私たち人間の側に誤解があるだけです
神は「愛の神」でありますが同時に「裁きの神」でもあります。
それは旧約の最初の本、創世記をよんでも明らかです。アダムとエバが罪を犯したとき神は「いいよ、いいよ」とはおっしゃらずに彼らを裁きました。そして2度とエデンの園に戻ることを許されませんでした。
なぜなら神はこの世の創造主であり主権者でありますから、創造物である人が神に逆らうことは主権者として許すことができなかったからです。
ですがその後、神に対して忠実なアダムの子孫、アブラハムの子孫に対してはさまざまな恵みを与え守りその祝福を約束しています。これは愛なる神の一面です。もちろん神に逆らうものに愛を与えられることはなさいませんでした。当時の人間の目から見れば神に逆らうのに繁栄をしている支配者もいましたが、(そういう人は神の愛を受けていたのだろうと人間は思いがちですが)最終的にはそういう人たちもみな裁かれています。
また、新約の中で神は「愛」について多くとかれていますが、罪のない自分の一人子イエス・キリストを十字架に掛けることで人間全ての罪を裁かれています。もし神が「何でも許すだけの愛」の神なら、なぜ自分の罪のない一人子を殺す必要があったでしょうか?他のどんな悪人を殺しても良かったはずです。
イエス・キリストでなければならなかったのは、罪のない方だったからです。旧約の時代に傷のない子羊をいけにえにしろという律法を与えられたとおり、主キリストでなければ、人の全ての罪を許すいけにえにはなりえなかったのです。ですから旧約の神はそのまま新約の神として変わらない裁きの神でもあります。
「愛」か「裁き」かどちらかだけを見ている限り、私たちは神を正しく理解しているとはいえないと思います。神はどちらの神でもあります。
昔昔は、支配者=神様であって・・・・・・彼らが人であっても人=神様であるわけです。
さからえないし、したがうし、神と崇めるわけであります。
彼らのお話教えに従い、一般の庶民や民衆はこの世に生を受けそして死すまで、彼らの創りたもうた下界で生きていくのでありました。
今の社会は、民主主義社会で一応通っておりますので、、、、、支配者=神には成りませんが、他国では、まだ~支配者=神 ・・・・・・の所も存在するのでありました。
日本でも、この日本や世界を創りたもうている~人々や動かしている人々のお話を、ニュースや雑誌や本やネットで見聞きできる範囲では、知る事もできますが、その昔昔のまだ、宇宙にも行った事の無い、エジソンの発明より前の時代では、当時もいろんな出来事か起こり~終わり~それを、記載している人もいたんだと・・・子供の頃読んで思いました。
ヨシュア記、ヨブ記、エゼキエル書にあたる様なモノも・・・・・今でも、この平成の又2007年の世界を動かし~仕切っている方々が書いていらっしゃルカも?知れませんね?
下界の住民していると、、、、天空を操るには、力不足です。あたりまえだろう?お前達?と無礼だと言われそうですが・・・・・・ 神=愛では無いのが普通です。
しかし、中には、博愛の神していらっしゃる方もいれば、、、至善の神、全能の神を目指す方もいるのでありましょう?????
それでは、今日は土曜日これからですね~おはようございます。
ほぼ、全ての神の観念に共通して言える事ですが、原始宗教では神は人間臭いです。
どちらかと言うと、「超能力者」に近い感じ。人格的に崩壊しかけているような奴も多い。
さて、ギリシャ神話なんかを例に取りますと、母ちゃんなんかとヤリまくったり、わが子食っちゃったり、します。で、一応の秩序を持った現世(?)に至っても、ギリシャ神話の神様は結構淫媚。ゼウスなんて浮気ガンガン行っていますし、なかには「かわいい男の子」って相手もいる(ゼウスのローマ読みを冠する木星の4大衛星を発見したガリレオは、衛星の名前を浮気相手の名前で名付けています。ナイスユーモア)。
で、徐々に世の中が落ち着いてくると、神の観念も「人格的に(?)尊敬出来る」神が登場します。
つまり、神の観念は「その時望まれる理想の人間」の反映で、社会が不安定な時は「とにかく強烈なリーダーシップ。たまに暴走もご愛嬌」で、社会が安定してくると「都会人として理想的な人格者」を求めている。って、考えてみてはどうでしょう?
聖書は、書かれた時代が違いますから。奴隷の身分から一族放浪して・・・・・なんて時代には「隣人に愛を」よりも「俺について来い。いい所連れて行ってやる」の神が望まれていたのでしょう。